
子どもは自由に伸び伸びと育つことを推奨されている。
これは時間的な自由ではなく、思考的な自由なんだと最近感じた。
Cは、いわゆる昔ながらのガキ大将というイメージで、
身体が大きく運動神経に優れており、仲間内の先頭で腕組みしているようなタイプだ。
「うるさいから殴った、殴ったらおとなしくなった、おれがみんなをまとめた」
なんてことを言ってしまう側面もある。
言ってしまえば、彼は素行に難あり、不良に近い存在だ。
でも、そんな彼が五年生の途中から初めてサッカーに触れた。
「仲の良い友だちがサッカーをやっているからおれもやりたくなった」
仲間といる時間をもっと増やしたかったのかもしれない。
運動能力に優れていたため、サッカーを始めると根本的に身体の強さが光った。
しかし技術的なミスはもとより、判断のミスが目立つ。
周りが欲しいタイミングで出せない、出したいタイミングでそこにいない。
一昔前のサッカーであれば体力と根性にモノを言わせて活躍が出来たが、
今はサッカーIQなど、知性の部分が特に求められる。
6年生になった。
ここからは公式戦すべてが最後の大会になる。
自然と選手もやり切るために妥協を一切しなくなっていった。
居残り練習、自主練習、とにかくプロ意識の高い選手を中心に黙々と練習に打ち込む。
時間が経過すると共に、彼の中にはある種、葛藤のようなものが生まれていった。
学校では腕っぷしの強さもあって主役として威張れる。
しかし、サッカーになると自分が一番出来ない人間として扱われる。
大人になると、それは「立場と役割」という解釈で、
自然と受け入れることが出来るようになっていく。
けど、彼はまだ小学生。
相反する環境と状況に対して理解が出来ない。
「何でこうなるんだ?」って、彼からはずいぶん相談を受けた。
そのうち、得体の知れない恐怖が嫌で練習もサボるようになった。
自分が威張り続けるためにサッカーを辞めることも考えたようだ。
だけど、「サッカーは好きだから」と言って辞めるという選択はしなかった。
こういう選手について腐ったみかんと解釈をするコーチもいる。
最後の夏は真剣勝負、戦える選手が一番大切、その他は流れに従え文句は言うな。
分かる、とても分かる。
選手一人ひとりの成長を大切にしますという建前と、
チームとして勝つからには犠牲は付き物であるという本音。
その判断の是非は一言では表せない、色々な想いと解釈がある。
そして最後の大会が始まった。